1997年某月某日、午前5時をまわったところ。高田馬場。蒸れた体臭が支配する猥雑な夜は、鮮烈な朝の光から逃げるように姿を消した。白々とした街の中を、黒いカラスだけが活発に飛びまわる。食い破られたゴミ袋が歩道に広がり、閉じ込められていた夜の死臭が広がった。
街の大通りから少し入ったところ、いかにも粗悪な作りの雑居ビル。一角の雀荘に、逃げ遅れた夜が閉じ込められている。澱のように積って揺れる、湿った空気。タン、タン、タン…単調な打牌の音が、紫煙で薄く色づいた空気の下をくぐもった音で這う。くたびれたサラリーマン、虚勢を張る職業不詳の男、世間知らずの学生。ぬるくなった砂糖たっぷりのコーヒーと泡の消えたコーラ。水の入った安っぽい銀色の灰皿の縁で短くなり続ける煙草。脂ぎった指先から規則正しく送り出される、黄色く薄汚れた麻雀牌。
入り口近くの汚い卓に、カナとM の姿。
カナ :「ねぇ、もう東京イヤや」 <手出しで切り>
M : 「どないしたん」
カナ : 「別にどげんもしとらんけど、イヤなんよ。便利すぎるとこも、なんか幻みたいに人工的なとこも。な、どっか行かん?」 <手出しで切り>
M :「どっかって、どこよ。あっ、それポン」 <対面の出した赤ポン、
切り>
カナ : 「えっとね、頭上には太陽が燦燦と輝き、緑の草原を芦毛の馬が駆け抜け、心豊かな人々は神や大地に感謝し…」 <ツモ切り>
M : 「あっ、それもポン」 <ポン、
切り。テンパイ気配>
カナ : 「ちゃんと聞いとる? 」
M : 「聞いてる聞いてる。快晴の天皇賞、 (メジロ)マックイーンに(武)豊で馬券当てて感謝してるって話やろ」
カナ : 「アホ。どっかないやろか、人間的なとこ……。あっ、スペインとかどげんね? 1日5回も食事したり、毎日昼寝したり、きっとみんなめっちゃ人間的ばい。『太陽と情熱の国』やもん。あー、行きたかなー。そげんしゅうで。リーチ」 <を手出しで切ってリーチ>
M : 「マジで? はい、これであたったらゴメンナサイや。スペインでもどこでも行ったるちゅうねん」 <ツモ切り>
カナ : 「ローン! メンタンイッパツドラ1、……あっ、ウラウラで跳ねた! ハイ親ッパネ、インパチとスペイン出稼ぎ決定」
M : 「なんやそれ、もろスジ引っ掛けやん。きったないわ」
カナ : 「うるさいわ。ほな、男なら言ったことにちゃんと落とし前つけてもらおか」 <高笑い>
てなかんじで、某月某日東三局にM のスペイン出稼ぎが決定。
ビザの手続上、先に入籍を済ませておいた方が良いみたいよ、という私の言葉にM が「なんやそれ、プロポーズかいな。しゃあないから結婚したろ」と言ったのでうっかり入籍、翌年にはダンナ・M が一足先にスペインへ旅立ちました。もちろん、出稼ぎに。
そして1999年、遅れること1年、ついに私もスペインはマドリへ到着。そんなかんじで、カナ式マドリ生活がはじまったのでありやした。なんて好い加減な、いやいや人生の転機なんて高田馬場の雀荘あたりに転がってるものかもしれないっす。
註:おわかりと思いますが、ダンナは関西出身、私は九州出身で言葉はちゃんぽんです。