"はい、パンタロンちょっと下げて"

 先週末、サッカーの城選手がマドリのバラハス空港に到着したのと時を同じくして、我が家にウィルス殿がやってきた。今ミレニアムの無病息災を祈ってから、ほんの1週間後である。

日曜の昼、まず咳のひどいダンナが体温を測る。38.2度。平熱の低いダンナ、表示された体温に慄いて再びベッドへ倒れ込む。続いて、咳はないものの嫌な予感の私が測定。おそるおそる表示を覗くと、39.2度。思わず桂三枝風にコケそうになる。

翌月曜の朝、といっても早朝3時に目が覚める。えらくハイな気分。測ってみると、下がっていたはずの体温が、再び39.5度まで上がっている。眠れないのでソファーに横になり、鼻歌交じりで永久機関の設計図を書きなぐる。自分のアイディアにゲラゲラ笑ったりしていたのだが、7時に起きたダンナを見た途端に思わず号泣。可愛いもんである。<

ダンナ出勤後、暖房を入れたままの部屋で、Tシャツにパジャマにトレーナーにバスローブに綿入れを着込み、毛布と布団を6枚重ねて被る。それでも前日の桂三枝風がまずかったのか、寒くて歯の根も合わないほど震える。ダンナが帰宅した昼の3時には、体温は遂に40度超。なんとか避けたかったのだが、とうとう病院行き決定。


 語学力不足の私たちヘッポコ夫妻を心配して、病院へはダンナの勤務先の先輩が心優しくも付き添ってくれることに。向かった先は、レアル・マドリ練習場の横に建つ大きな救急総合病院。30分ほど待った後、細かな問診を受ける。担当医は若い女性。診療台に横になる際に思わず靴を脱いでしまい、笑われる。

問診後、いったん待合室に戻される。先の診療で裸になったものだから、ますます熱が上ってしんどさもピーク。さらに待つこと30分余、やっと注射の部屋に案内される。まず、血圧を測定。なにが良くなかったのかフラフラの身体に4度もやり直し。やっと注射の番となり、腕を捲ろうとすると「No」の声。

注射のスタッフを見ると、首を振りながら「パンタロン(ズボン=パンツ、のことをスペイン語ではこういうのだ)をちょっと下げてちょうだい」と笑顔で言う。すぐに理解できずにポカンとしていると、またもや笑顔で私の腰を指差す。「えっ? 腰に注射?」 思わず日本語で問い返す私に「Si」と日本語を理解したかのごとく頷く彼女の右手には、すでにぶっとい注射器が。


心の準備もできていなければ、腰に注射される時にどういう体勢でいればいいかなんていう予備知識もない。パンツを下げたまま小首を傾げて部屋の真ん中に立ち尽くす私に、背後に立った彼女はすぐさま消毒を始める。続いて、鈍いような鋭いような、確かな痛みが。思わず踏まれた猫のように「ぎゃ」と短く声を上げる。なにかをぎゅっと握りたいのだが、周囲にはなにもない。手が虚空を泳ぐうち、太くて長い針がことさらゆっくり入り、体内で停止。やがて抜かれる……かどうかというところで、目の前が真っ白になる。いかん、貧血や。

注射針が折れて体内に残ったことがあって」という友人の恐ろしい話を思い出しながらも、身体がグラリと傾く。慌てて2名のスタッフが脇を抱え、椅子に座らせる。「こういう風に呼吸をしなさい、私の真似をしなさい」と言われているのはわかるのだが、世界は真っ白。汗がどっと出る。急患用マスクがあてがわれる。頬をピシャピシャ叩かれながら「頭を起こして、ほら私をちゃんと見て」と言われ続けるのだが、貧血やから頭なんか起こされへんっちゅうねん。しかし、「貧血」という単語を知らないので伝えられない。ひたすら「No puedo, no puedo」(できません、できません)とだけ繰り返す。

ついに、室外へ担ぎ出される。廊下で待っていたダンナと先輩が驚いた顔で見ている。マスクをつけたまま急患用のベッドに横たえられると、慌てた顔してダンナが飛んできた。死にそうな顔の私に一言、「おい、ズボン下がったままやで


廊下では、先輩が「彼女は注射で気分が悪くなった」とスタッフから説明を受けている。「ちゃうねん、貧血やねん。だいたい5回も血圧測られたら貧血にもなるっちゅうねん」と言いたいところだが、口にはマスク。もどかしい思いを抱えたまま、ファスナー全開で目を閉じる

30分ほどして、やっと気分が良くなる。さっさと帰りたいとこだが、最初の担当医に再度名前を呼ばれるまで待たなければならない。1時間、1時間半……。下がった熱も再び上昇する勢い。業を煮やしたダンナが担当医に「まだですか?」と聞くと、「もうすぐです」。さらに30分経過。待ちきれずに再び尋ねると、「じゃあ次、どうぞ」。スペインだ。

こちらでは医者がカルテに必要な薬も書き込んで、そのまま患者に渡す。患者はそれを持って薬局へ行くという仕組みだ。完全分業。日本と違ってカルテをドイツ語で書いたりしないのも、オープンで嬉しい。といっても、スペイン語だからまだ読めないんだけどね。さらに嬉しいのは、こういう救急病院の場合はタダだということ。相変わらず、弱者には優しいぜ。

結局、自宅の1階にある薬局まで戻ってきたのは、家を出てから5時間後。私はさすがに良くなったが、あの空気の悪い中でずっと付き添っていたダンナの風邪が悪化する羽目に。薬はふたりで分けて使おう。なーに、なくなったらカルテを持って薬局に行けばまた買えるんだから。


  しかし、腰に注射は参った。やはり、海外で病院に行くというのは、予想以上にたいへんなことであった。熱は下がっても、しばらくショックが残りそうである。それにしても、注射の後ドタバタしてしまったせいか、その場所を揉んだりバンソウコウを貼ったりなにもしてくれなかったけど、良いんのだろうか……。やはりスペイン、おそるべし。



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