この数ヶ月、我が家は『正露丸』の臭いが充満していた。抜けるようなコバルトブルーのマドリの空。そのすがすがしい空へ、高台に建つピソの部分的最上階に位置する我が家の窓から、実は正露丸臭が拡散していたのである。すわマドリ異臭騒ぎ、というところ。近所の皆さんごめんなさい。
というのも、ダンナの歯痛のせいである。歯痛には正露丸。ご存知であろうか、よく効くのである。手元に正露丸がある人は説明を読んでみてほしい。堂々と効能一覧のトリを飾るのが「むし歯痛」であることに気づかれるだろう。使い方は、患部に直接詰める。これが効く、らしい。いったいどんな成分なんだ、正露丸。
というわけで毎日1粒ずつ歯に詰めて出勤していたダンナだが、どんどん痛みが増し、先月には毎朝鏡を覗き込んで4粒詰めるのが日課となっていた。もはや典型的な依存症である。正露丸依存症。ウフ。
いや、笑っている場合ではない。日本から持ち込んだ正露丸も残り少なくなった。ちなみに同じ荷物の中の風邪薬『改源』は税関で没収されたが、正露丸は大丈夫だった。きっと麻薬犬の鼻もやられてしまったのだろう。おそるべし、正露丸。
いや、感心している場合ではない。「高橋克典よりカッコイイ!」と30年の人生で1度だけ言われたことがあるというダンナだが、こう正露丸臭くては男前も台無しである。そこで意を決して歯科医を訪れると、虫歯ではなくて親知らずとのこと。そりゃ正露丸ではどうにもならんわ。
さっそく抜いてもらうよう頼むと、歯が曲って生えているから外科医じゃないと抜けないとのこと。さらにいろいろと問い合わせているうちに、ともかくまず大きな総合病院へ行ってレントゲンを撮って、それを持って他を当たってみて、ってなかんじになる。
「なんで? レントゲンなんて歯医者さんとこで撮ってもらえるんちゃうの?」 日本では歯科でレントゲン撮影もしたと思うのだが、こちらの歯科でレントゲンの設備を有するところはほとんどないとのこと。しぶしぶ、尻に注射をされて「もう二度と来るもんか!」と先月誓ったばかりの総合病院(第13話参照)へ。
なぜかレントゲン撮影の担当として紹介された窓口は、小児科。著作権など無視してデタラメに描かれたミッキーとミニーが虚ろな笑顔で手を振る壁に寄りかかり、赤ちゃんやお子ちゃんたちの中で順番を待つ。まるで「おかあさんといっしょ」のお姉さんの気持ち。みんな見慣れない日本人という存在がとても気になるらしく、文字どおり目を見開いてこちらを凝視する。西田敏行の真似をするダチョウ倶楽部の上島竜兵のようなツブラな瞳で微笑み返すと、恥ずかしがって顔を隠したり脅えて親に抱きついたり。
「ところでさ、なんで小児科なん?」「さぁ、やっぱり『親知らず』やからちゃう?」 すぐには効かない考えオチビームをくらったまま、ダンナは撮影へ。数分後、手に自分のレントゲン写真を握って戻ってきた。どうやらそのまま呉れるらしい。ちなみに本日も、費用はタダ。よくわからんシステムだ。
同じ日、知人の知人が紹介してくださった歯科医へダメモトで行ってみる。待合室で日本の『女性セブン』に相当するような雑誌にあった「スペイン王女の気品と優雅さに、訪問先の日本も大フィーバー」という雅子さま写真入り記事を眺めていると、ダンナの名前が呼ばれる。「ほな、たぶん抜いて貰われへんと思うけど、ちょっと行ってくるわ」 ダンナ、高橋克典も惚れ惚れするような余裕の笑顔で待合室を後にする。
という前振りをしたからにはもちろん。ダンナ、なかなか戻ってこない。どうやらここの歯科医は、他の歯科医が「これは外科じゃないと」と匙を投げた親知らずを抜いてくれるらしい。心の準備ができていなかったダンナ、今頃さぞかし慌てているだろう。ケケケケ。私は真剣な面持ちで、アントニオ・バンデラスが髪を切る前後の写真を比べ、「目の離れた男はロン毛が良い」などと考えてみる。キムタク然り。サッカー選手の北澤なんて髪が短かったら竹中直人と見分けがつかんよ。
20分ほど経った頃、明らかにダンナのものとわかる大きな笑い声が響く。壊れたかな?
30分後、待合室に心なしか蒼ざめたダンナが現れる。「ひょうふぁ、ほれれほひまひっへ」 さっぱりわからない。病院を出たところで道路の隅に、痰ならぬ血を吐く。「いやさぁ、『何本抜きますか?』『2本です』『はいわかりました』っつって、一気に抜かれたで。外科行けって言われた歯なんやで。大丈夫なんかいな。なんか血、ぜんぜん止まれへんねんけど」 また血を吐く。通行人が、伝染病に罹った東洋人と思ってか大きく避けて通り過ぎる。
帰宅後、歯科医から指示された通りに、抜歯箇所を氷で冷やす。あまりの痛さに、ダンナ、ムームーと唸っている。辛そうだが、我慢できずにずっと気になっていたことを訊ねる。「ね、治療中になんかめっちゃ笑ってたやろ。あれなんやったん?」 「あ、あれな」
ダンナがフガフガ喋るところによると、最初に右の歯を抜いたのだが、その抜いた穴に、後から抜こうとした左の歯がぽーんと飛んで来てスポッと入ったらしい。それを見た医者曰く、「君、ゴルフは好きかい?」。そこで大爆笑と相成ったとのこと。
「へえぇ、そらすごいなぁ。でもあんた、よう笑えたねぇ」 「アホか。笑わなしゃあないから笑うたけど、ホンマ笑われへんかったで。めっちゃ痛かったっちゅうねん。麻酔もよう効いてへんかったし。まだ痛いっちゅうねん。イタタタ。すまんけど、氷、替えてきてくれる?」 世が世なら高橋克典だったかもしれないすずしげな顔が、今日は見る影もなく宍戸錠。可哀相やから、氷、替えたろ。
あと、今日は言うのやめとこかな。高橋克典、別にかっこええって思ったことないんよ。あんたがいちばんや。ま、私は鶴田真由とええ勝負できるんやけどなー。ほな、サイナラ。