マドリの街を見渡せば、至るところで真っ赤な顔して走るブスを目にすることができる。道路の右端はブス専用として確保されていることも多い。3月に入っていよいよ緑濃くなったマドリの街を、赤いブスは巨体を揺らして駆け抜ける。もちろん、ブスというのは”bus”、英語的発音なら「バス」、ムリヤリ日本語に訳すなら「乗合自動車」である。
スペイン語は、英語などと比べると、だいたいローマ字読みをすれば良いことが多い。だからバス、すなわち”autobus”は「アウトブス」と読めば良いだけの話なのだが、どうしてもこの響きからはしぶしぶ草野球のチームに入れてもらったが大事な場面で三振に取られて仲間の冷たい視線を気にしつつおどおどとベンチへ帰る不細工な女性、というシーンが連想される。あぁ、なんていたいけな小学校時代の私。
我が家には昨年夏に中古で購入したプジョー306もある。それが持ち主と同じく実に病弱な車でついにエアコンもパワーウィンドウも壊れブレーキ板も摩耗し左前ライトが割られ最近では左前輪から謎めいた不審音を発しているからというわけではないのだが、私の普段の足はブスとメトロ(”metro”=地下鉄)。ともに、市内ほぼ全域一律135Ptas、共通10回券は705Ptas。そして市内ブス”EMT”は基本的に全面赤色である。(天然ガスを使うエコロジー車は、なんちゅうかエコロジーっぽい色なんだけど)
最近はようやくマドリの地理も把握してきて、さまざまな乗り間違いを経ながら、100以上の路線が市内を網の目のように走るブスをなんとか使いこなせるようになってきた。そうすると、以前から薄々感じてはいたのだが、改めて日本のバスとの違いに驚かされる。
まず、車内の座席のうちのいくつかが後ろ向きになっている。仲良し4人組がそんな向かい合わせの席に座れば、ちょっとした行楽気分でブスの旅を楽しむことができるのだ。実際、向かい合わせの席に座ってお喋りに興じている学生たちをよく見掛ける。
私も一度、何気なく後ろ向きの席に座ってみた。入口(前乗り)近くの席だったので、向かい合わせの人はもちろん、後部に座っていたり立っていたりする多くの乗客と目が合う。どうも慣れないので、窓の外を見る。「世界の車窓から」みたいな雄大な景色ならまだしも、目に飛び込んで来るのは洗濯物の干されたアパートや信号待ちの車に新聞を売りに行く人など。これまた、慣れない。それらが目の横をどんどん通り過ぎるうち、すっかり酔ってしまった。そんな経験をしてからは、決して後ろ向きの座席には座らないことにしている。平気な顔をして座って新聞なぞ読むマドリ市民に、「さすが無敵艦隊の子孫よ」と勝手に感服。
ブスは前乗りなので、乗る時に運転手さんと挨拶を交わす。陽射しの強いマドリの街を走る運転手さんはたいがい映画『トップ・ガン』のトム・クルーズのような濃い色のサングラスをして、たまに精悍な顔立ちからこぼれる白い歯をキラリと光らせる。アントニオ・バンデラスのように若くてガタイが良くて髪を短く刈った兄ちゃんが大きなハンドルに肘をあずけてニカリと笑うのだから、堪らない。あるいは脂の乗った壮年のおじちゃんが髪をポマードで光らせながらウィンクでもしそうな親しい笑顔を向けてくれるのだが、これもまた堪えられない魅力。
思わずホントはだいたいわかっているのに「このブスは〜まで行きますか?」だとか「〜へ行きたいのですが、最寄りのバス停に着いたら教えてください」などと話しかけてしまう。そんな私に対して、彼らは一様に親切な対応をしてくれる。「次のバス停で降りて、そのまままっすぐ歩き、大通りにぶつかったら右折しなさい」なんてていねいに教えてくれるもんだから、もう胸キュン(なんちて。わっかるっかなー?)。いそいそと運転席近くに陣取り、巧みにブスを操る運転手さんをうっとりと見つめることになる。
そうして気づいたのだが、かなりの頻度で、バスに乗り込むや否や運転席横に立って走行中ずっと運転手と話している人を見掛ける。たいがい初老の男性だが、学生だったり中年女性だったりすることもある。あまりの親しい様子に初めは知人なのかと思っていたが、漏れ聞こえる話の内容から察すると、どうもそういうわけでもないようだ。とすると、乗客の一方的な世間話か。運転手に世間話をする乗客なんて、日本では京都嵐山の市電でしか見たことがないぞ。
しかししかし、何より驚くのは、運転の荒さ。車を運転していていちばん怖かったのがブスだったのだが、乗ってみてもやはりブスが怖い。なんせ専用路線もあるから空いている道は時速100km以上出す、その勢いでカーブを曲る、バス停で急停止する、バス停から急発進する。マドリの道路は合流・分離を繰り返すところが多いのだが、そこでもかなりの無茶をする。たいていは相手の車が譲るのだが、譲らない車がいても、ブスは象の雄叫びのようなクラクションを鳴らしながら僅かなスペースに突っ込んで行く。運悪く車内の座席が満杯の場合は、命懸けで手すりにしがみつかなければならない。
そして極め付けには信号無視。「ブスは赤信号でも無視して良い」と法で定められているのではないかというくらい、当たり前のように信号を無視する。路線を設定する段階でミスがあったのか、必ず左折禁止の箇所で左折するブス路線まである。実にスペイン的ではあるのだが……、どうなの、これ。
最近は、1日に2回はブスを利用している。路線に大学があることもあって学生が多い車内に座り、たぶん「だってさぁ、〜じゃん」に相当するようなスペイン語に耳をそばだてながら、アーモンドやさまざまな花が咲き誇る春の風景を堪能する。なかなかに楽しい時間。ただ、気を抜いたらやっぱり荒い運転に酔っちゃうんだけど
先日、珍しく弱気なタイプの運転手さんに遭遇。なかなか合流できなかった挙げ句、誰もいない横断歩道を前にしながらちゃんと信号を守りやがった。急いでいたこともあり「こら、なんで赤信号で止まるんじゃい!」と心の中で罵倒し、そんな自分に驚く。いや、慣れというのは怖いやね。でもこれが、マドリレーニョになってきた証なのかな? 明日はまた、グアポな運転手さんに当たりますように!