"マドリで見つけた江戸の花"

 ロサンゼルスの空港では当然のように用意されていた便座シートペーパーが、ロンドンの空港で姿も形も無くなったかと思うと、マドリッドの空港ではトイレットペーパーまで消え去ってしまった(これはタマタマらしいけど)。散乱するタバコの吸い殻を見つめながら腰を浮かせて用を足すのも、いと懐かしき哉。 ビバ! 国的三段オチ。ビバビバ! スペイン。

てなかんじでギックラ腰(旅行記:さんでぃえご日記参照)をさすりつつ、我が故郷・スペインに戻って参りました。手負いの身体から繰り出す必殺モンゴリアン・チョップをものともせずひしと私を抱きしめたダンナと、黒煙吐き上げるプジョー306ディーゼル仕様車内で語らうことしばし。そのうち奴がこう言った。「あんな、俺な、こないだ『カバジェロ!』って呼びかけられてん」


 「カバジェロ」とは "caballero"と書く。もとは「騎乗の」という意味なのだが(ちなみに「馬」は"caballo, カバジョ"というのだ)、それから転じてなのか、実際には「紳士」という意味合いで使われることが多い。たとえば「紳士淑女の皆様方」っていうのは、「セニョーラス イ カバジェロス」となるって寸法だ。

じゃあ、弱々しい笑顔がたまらなく素敵なダンナが、どこぞのオイヤンに「いよっ、紳士!」と呼びかけられたのかというと、そういうわけではない。もちろん、「いよっ、馬にまたがってるねぇ!」と言われたわけでもない。「ちょっと、そこなるダンナ」あるいは「ちょっとアンタ」、それくらいの軽い呼びかけなのである。<


スペイン語は、見知らぬ人に呼びかける言葉をたくさん持っている。男なら「カバジェロ」の他にも、「セニョール(紳士、殿方)」だの「チコ(少年、といっても40代でもチコなんだけど)」だの。女なら「セニョーラ」の他、「セニョリータ(本来は未婚女性を指すが、みのもんた系オイヤンにかかると年齢の上限なし)」、「チカ(少女)」、「グアパ(別嬪さん)」など。

ちなみにこの「グアパ」はクセモノで、別嬪さんってな意味ではあるけれど、女であればヒトでもネコでも対象になるくらいの軽い言葉である。ゆめゆめ、有頂天にならぬよう第14話参照)。同様に罪作りな単語として「ボニータ(カワイコちゃん)」もある。

これらの言葉は、主に商売を営むオイヤンから投げかけられる。背丈はそれほど大きくなく、骨太で腰まわりが豊かなスペイン人中年特有の身体を絞るようにして「オーラ、グアーッパ! ケッタール?」(よっ、別嬪さん。調子はどうだい?)と歌うように朗々と声を張り上げながら、髪を撫でつけたポマードの反射光を掻き消すくらいに大きくて素敵なウィンクをバシャッとキめられると、「あぁ、生きてるって素晴らしい!」なんて、ちょと触れれば落ちなむ風情。なんのこっちゃ。

とにかくメルカド内の女性はみんな別嬪さんだし、妖しい夜の街を歩く男性はみんな紳士である。そんな特殊な場合じゃなくても、たとえばバルでウェイターを呼びとめたいなら「セニョール!」と言うし、バス停で隣り合った老婦人には「セニョーラ」と呼びかける。ごく普通のことなのだ。


そんな「一期一会を大切にする友の会」的スペイン精神に1年間もどっぷり浸かっていた私だから、そういえば、アメリカで随分困ったのである。

たとえばスーパーマーケットで。店員さんに、キャリーさんが夕食に絶対必要だというホワイト・ソースの場所を尋ねる時。「エクスキューズ・ミー」という言葉だけで、忙しげな後ろ姿を見せて棚の整理をしている彼を振り向かせて良いのか、私にゃあトンとわからなかった。「ブエナス・タルデス、セニョール!」でならば、声を掛けやすいのだが。だもんで思わず「エクスキューズ・ミー、ミスター」と言ってしまい、どうもちょっと笑われてしまったぞ。まぁーその、なんと言いましょうか、いわゆる長嶋茂雄みたいだったんでしょうね、ハイ。

たとえば帰りの飛行機で。ギックラ腰を切々と訴えたところ、フライト・アテンダントさんが親切にも席を替えてくれた。「サンキュウ・ベリマッチ」、その後が続かない。「ムチシマス・グラーシアス、セニョリータ!」ってな雰囲気、つまり相手の首根っこにぶら下がりたいほどの歓喜を表わすことができないのである。彼女が通路に姿を現す度に声を掛けようとするのだが、「ミセス、っていうのは失礼だし、あっそうかミスっていうのも失礼で、今はミズって言うんだっけ。でも、そんなの聞いたことないし。もし間違ったら、セクハラにより機内緊急逮捕されかねん国だしなぁ。あぁなんて呼びかければ良いんだぁ」と悶絶している間に彼女は横を通り過ぎてしまう。結局、この胸の内の感謝の念をすべて伝えることはできずじまいだった。無念。


 ここで考えたんだけど、そういうのって、日本ではなんて言ってたかな。今日び、「ちょいと、そこの別嬪さん」なんて言うのは寅さんくらいなもんだろう。誰彼かまわず「そこのお嬢さん」と呼びかけるのも、みのもんたの専売特許のような気もする。そういえば、当時の藤島部屋の近くにあった中野の小さな商店街では、「奥さん」って言われたなぁ。ダンナは「ご主人」だったっけ。

歌舞伎町あたりのポン引き稼業の怪しい人は、なんて言ってたっけ。「ちょっとダンナ、いい妓(コ)がいやすぜ」なんて自己模倣的なこと、言ってたかな。ウゥム。どうも時代がかっちゃうなぁ。


なるほど、そうか。アッハーン、気づいちゃったよ。以前から薄々感じていたんだけど、スペイン語を訳す時って、時代劇風の言葉を使うとしっくりくることが多いのだ。「オラ、グアパ!」は「やぁ! 美人さん」じゃなくて「いよっ! 別嬪さん」。「グラシアス!」だって「ありがとう!」よりは「ありがてぇなぁ!」の方が断然ハマるもの。って、これは異論も多かろうから、あくまで私の感覚ね。

奇しくも、以前知人がマドリッドの空港で当時持ち出し禁止の生ハムを係員に発見され、「家族に食べさせたいんだ」と涙ながらに訴えたら「じゃあ良いよ。おふくろさんに、よろしくな」とお目こぼしになったという話を兄にしたところ。「あんたそりゃ、まるで大岡裁きたいえー」と驚かれた

これが大岡裁きなら、見ず知らずの人とも親しく言葉を交わすこの市井の人々の距離感、世界中の観光客から「スペイン人は人懐っこい!」と賞賛の言葉を受ける「一期一会を大切にする友の会」的スペイン精神は、さしずめ長屋文化とでもいうところか。アハハ、こうなると完全に江戸時代だ。よく知らないんだけどさ。

交通違反はその場で払えば罰金2割引とか、ワリカンはしないで必ず誰かがおごるのとか、ユーロ圏内随一の収入に占める飲食店への出費率とか、馴染みになるとツマミの量が加速度的に増えるバルとか、道端で立ち止まっていると必ず誰かが「どうしたの?」と声を掛けてくれることとか、貧しい国なのになんだかみんな明るいとことか、宵っ張りで宵越しの金は持たなくてヨイショ上手なとことか。

そういえば、思い当たるところがたくさんある。古き良き江戸時代って、こんなかんじだったのかな。


 「ってなかんじよ、八っつあん。」
 「そうけぇ、熊さん。」

 「しかしあれだねぇ……(煙管の灰をポンと落として)、今、そこに惹かれる日本人が多いっつうのも……。」
 「みなまで言いねぇ。みなまで言いねぇ。」

 「そうよな、喧嘩と花火は江戸の華、秘して咲くのが恋の花、」
 「マドリで見つけた江戸の花、ってな。」



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