"しまった、ドアの前に佇む火曜日"

  いつもびっくりしてしまうのだが、現実って、あんまりだ。スペイン語でデマシアード、という。あんまし(り)やどー、そんな嘆きと虚脱に通ずると思やしないかい?

10月最後の31日、火曜日。翌月から語学学校へ通うので時間のあるうちに、とプラド美術館へ行く予定を立てた。プラド美術館。『日の沈むことのない帝国』と称されたスペイン黄金時代(16、17世紀)を中心とした作品、すなわち"フェリペ4世の宮廷画家にして現在プラド正面玄関の銅像"ベラスケスや"突出した宗教画家にして南玄関の銅像"ムリージョなどを中心に、"トレドを愛したギリシャ人"エル・グレコから"黒く塗れ!"にして"北玄関の銅像"ゴヤまで鑑賞することができる、素敵な素敵な美術館。

これまでプラドへは2回、Tさんの参加する「スペインご近所奥様文化鑑賞会」にくっついて行ったことがある。今回はバロック様式、などのテーマでいくつかの絵をワイワイ鑑賞する会。おもしろかったので、その日はひとりで行ってみようと思ったのだ。

朝10時。新しいマフラーを小粋に巻きつけ、両手にゴミ袋を持つ。玄関のドアを、鍵を差し込んで開ける。小さく開いたドアから身体を滑り出させながら、持ちものを確認。財布は右ポケット。身分証は左ポケット。バスの回数券も持った。コートの胸ポケットには、今朝方つくった「プラドみどころメモ」。OK。玄関外に立ち、後ろ手でドアを閉める。ガチャン。……あっ!


 スペインのピソ(アパート)に住むなら、毎日最低2コの鍵を使う。ピソ自体の出入口の鍵と、自分の居住する部屋の鍵。ピソの出入口は、中に入るときはもちろん鍵を使って開けるが、外に出るときはブザーのようなものを押すと自動で開くしくみになっている。これを忘れて外出し、出入口前で途方に暮れたのは来西翌日のこと。満杯の買い物袋を両手に、インターホンで他の部屋を呼び出す勇気もなく、他の住人が帰ってくるのを20分、涙目で待った。

もうひとつ、居住する部屋の出入口、すなわち一般的な意味での「玄関」のドア。このドア、たいてい、室内から「引く」タイプ。室内からドアを開けるときは、まず鍵を差し込む。ぐるりとまわすうちに、ガチャリと音がして、ドアの二重ロックが解除される。そこからさらに1/4周まわすと、ドアロックが解除されて半開きになる。そこで鍵を1/4周もどして引き抜き、傍のレバー式のノブを押し下げ、ドアを引きながら開ける。自分が外に出たら、ドアの中央にある取っ手を引いて閉める。どうってことない話。

次に、室外からドアを開けるとき。まず、もちろん鍵を差し込む。ぐるりとまわすうちに、二重ロックが解除される。さらに1/4周まわすと、ドアロックが解除されて半開きになる。そのまま、鍵を差し込んでまわした状態でドアを押しながら室内に入り、鍵を引き抜き、ドアを内側からお尻でよいしょっと押して閉める。

お気づきになられたであろうか。ロックが解除された状態でドアを開けるための、いわゆる「ノブ」の役割をするものって、ドアの外側にはないのだ。日本だったらちょっとゴミ捨て、とか、ちょっとお隣に回覧板を、とかいうときには(防犯面からの善し悪しはともかく)鍵を持たずに家の外に出られるんだけど、スペインではそれが無理。施錠していない玄関ドアであっても、いったん閉まってしまったら、余程の特殊技能を持った人でないと、鍵を使うことなしに外からドアを開けることはできない。外からドアを引いて閉めるための「取っ手」はあるのだが、ドアの中央にぽつねんとあることからも想像できる通り、それを押したり回したりしてドアを開けることはできないのだ。

そしてこの日、私はドアの内側に鍵を差し込んだまま、外からドアを閉めてしまったんだな。


 「しまった!」  目の前にあるのは、まさにきっちり閉まったドア。ドア中央部の取っ手をつかんで押してみるが、もちろん開くわけもない。とりあえずゴミを捨てつつ近くの公衆電話へ走って勤務中のダンナに電話、合鍵を受け取りに行く旨を知らせる。プラドへ向かうのとは違う番号のバスに乗り、窓際に腰掛ける。秋晴れの良い天気。美術館日和……。惨めな気持ちでいっぱいになる。

「おまえはほんまにアッホやなぁ。信じられへんわ」というダンナの容赦ない言葉をありがたく胸にしまい、12時、再び閉まったドアの前へ。おっ、いつものように差し込める。祈るような気持ちでまわす。おっっ、まわる、まわる。ゆっくりと、1回転、2回転、3回転……。あかん、ただまわるだけや。

おっちゃん、助けてー」 こういうときは、迷わず対面のマテオを呼ぶ。「オーラ、どうしたってんだい」 「あのね、」 息せき切って説明する声に、斜め前の住人であるペピータも顔を出す。「あーら、あんたそりゃあ大変よぅ」

ペピータが貸してくれた細い編みもの針で、マテオが鍵穴をつつく。内側から差されている鍵をなんとか落とそうという狙い。だって、合鍵は手元にあるんだから。20分経過、どうも無理みたい。管理人に聞いても、どうしようもないと言う。「こりゃ、鍵屋を呼ぶしかねぇわなぁ」とマテオ。どこにあったっけ、とペピータと相談。「そうだよ、たしか通りの向いに金物屋があったわよ。ほら、一緒に行ってあげるから付いといで!」  つい先日私を震え上がらせた第35話参照)ペピータとともに、金物屋へ。


12時半。金物屋のおっちゃんは、時代劇の悪代官または河野洋平の顔に、パンチョ伊東のヅラ(あるいは頭髪)をかぶせたような、強烈なインパクトの頭を振った。「鍵屋に頼むなら、8.600ペセタにIVA(税金、16%)で、だいたい1万ペセタ(約6.000円)になるな」 えーっ、高ーい。ペピータと顔を見合わせていると、パンチョ河野が悪い顔になった。「2時まで待てば、3.000ペセタ(約1.800円)になるんだけど、なー」と凄い顔で笑う。「というのはさ」 と、手招きして囁く。「仕方ないからさ、この店閉めた後、俺がちょっと見てやっても良いってことだ。任せときな、絶対だいじょうぶだから。3.000ペセタで、IVAなし。あんたはたった1時間半待つだけで 7.000ペセタも得するっていうわけだな。な、そうするだろ?  そうするよなぁ」 そりゃまぁそれで済むなら、とコクリと頷く。

そこに、白衣を翻して長身の男が入ってきた。階下の薬局のあんちゃんだ。「なになに、どうしたってえんだい。えっ、鍵をね、ふんふん。ありゃあよ、簡単に開くんだがね。レントゲン写真がありゃ、ちょちょいのちょい、よ」 またペピータと顔を見合わせる。「俺は仕事中で手が離せないけど……、そうだ15分後に薬局においで。ま、ものは試し、って言うだろ?」

ペピータと銀行へ行き、そこでフリアばあちゃん第35話参照)と会い、半泣き半笑いで状況をする。フリアばあちゃんったら、頭を撫でてくれる。

ついで、ペピータとともに薬局へ。あんちゃんが「1階のBに行ってごらん、話はしといたから」と。指定された部屋の呼び鈴を押すと、レントゲンを手にした当惑顔のおばあちゃんが出てくる。「はいはい、頼まれたもの。これでいいかね?」 (たぶん)おばあちゃんのレントゲン写真。中央にくっきりと描き出された頭蓋骨。あまりしげしげ見るのもなんなんで「ありがとう、すぐ返します」の声もそそくさと4階の我が家へ駆け上がり、ペピータとドアの隙間にレントゲン写真をねじ込む。が、どうもこうもならない。15分経過。今度は丁寧なお礼とともに、レントゲン写真を返す。

2時まであと1時間もある。パンを買って帰ってきたマテオが、家に招き入れてくれる。昼に帰ってくる息子たちへの食事を準備しながら、「どうだ、困ったことないか?」「仕事は見つかったか」といつもと同じ質問。そして奥さんが亡くなったときの話など、いつもより少し個人的な話をする。

2時、パンチョ河野が来た。薄い紙をドアの隙間に入れ、悪戦苦闘すること10分。悪代官のこめかみに、似合わない汗が光る。やがて、これまた似合わないバツの悪そうな顔で振り向いた。「おっかしいな、今日に限ってできないんだよな。これは、鍵屋を呼ぶしかないかな。やれやれまいった。いやはや、こんなことがあるとはね」 マテオの部屋から鍵屋に電話をすると、「やれやれいやはやどうにもこうにも」と早口で呟きながらそそくさと去って行く。呆然と見送る私の肩を、ペピータが「鍵屋が来るまで、うちで待つ?  汚い部屋だけど」と抱いてくれた。

2時半に帰宅したダンナも一緒に、ペピータの部屋にお邪魔する。ドイツに27年いた時の話、バルセロナにいる孫の写真、息子が最近つれなくなったのよ、嫁が冷たいのよね、主人とは別居してるの、マラガのピソも売っちゃった、田舎のチャレー(一軒家)も手放すの、だって私にはもう不要だから。今年のクリスマスはどうなるかしら。孫と一緒に過ごしたいのだけれど。そうだ、ジュースは飲む? 果物は? ほら、独りだからなんにもないけど、遠慮しないで。私とダンナが40代後半と思っていたペピータは60代半ばで、思った通り気丈で、思ったよりも淋しいみたい。

3時、ついに鍵屋が来る。「ここかい?」 薄いプラスチック板を差し込んでものの5秒、あっけなくドアが開いた。ペピータと抱き合って喜び、マテオを呼び出して「おっちゃん、開いたばい!」とこれまた抱きつく。鍵屋のあんちゃんが「みんなご近所さん? 良い関係だね」と目を細め、その表情のままで「はい、9.860ペセタね」と言い放つ。ペピータが「あんたそれ、ちょっと安くなんない? ドイツでは3.000ペセタくらいだったわよ。ちょっちょってそこいじって1万ペセタ、なーんてあんまりだわよちょっと、ねぇ。負けなさいよぅ」と詰め寄るが、あんちゃんは「値段は決まってるから。ほら、今からあと3軒まわらなきゃなんないし」と動じない。ダンナが支払う横で、ペピータに「ありがと!」と抱きつく。彼女は「カナ、今度から気を付けなきゃだめよー」と私の頬にそっと手を当て、鍵屋をもう一度睨みして部屋に戻った。鍵屋が肩をすくめる。「怖いねぇ」「ううん、とっても親切よ」「あぁ、そうだろうな」


 後日談。

「マテオ、マテオ、この間はありがとね」  安いワインを差し出すと、「こんなもんはいらん。必要ない。なにかが欲しくてやったわけじゃないのだから。帰れ」と怒られた。「いや、この間もだけど、いつも親切にしてもらって嬉しいって、ただそんだけ。特別に考えないで」と説明して、やっと受け取ってもらえた。もう、頑固じいちゃんなんだから。

「ペピータ、ペピータ、あのね、買い過ぎちゃったんだけど、食べてくれない?」  ワインは飲まないって聞いたから、果物を詰め合わせた紙袋を差し出す。「あら、ありがと。でもあんたたちの方が若いんだから、いっぱい食べなさいよ」  「でももし果物好きなら、食べて欲しいな。そう思ってるんだけど、嫌い?  バナナと、梨その名も"NASHI"と、フジリンゴその名も"FUJI"。美味しいよ」 「そう? じゃ、もらうわね。そうだ、今度いっしょに買い物行きましょうね。そしてちょっと飲みましょう。ありがと、ダンケ・シェーン」 ダンケ? あ、うっかりドイツ語が出ちゃったんだ。「こちらこそよろしくね、ビッテ・シェーン」と返したところでペピータも気がつき大笑い。

「あーあ、1万ペセタやで」と嘆くのは我がダンナ。「まぁしゃあないわな。今度から気ぃつけよ」  「うん」 お、意外に寛容じゃん。「で、どっちがええ?  イワタニのカセットコンロを買うのやめるか、今月は外食なしか。そうやな、ブーツ買うのやめてもええで」

グウ。反省したっす。



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