"みたび、語学学校中"

 みなさんご存知の通り私はスペインに住んでいて、この国ではスペイン語が話されている。友人から借りた『思い出の紅白歌合戦、昭和53年・57年』というビデオを見ていたら『コモエスタ赤坂』という曲が出てきたので古典的な手順を踏んでこけてしまったが、『コモエスタ、セニョ〜ル』っていう、聞いていて恥かしくなるほどベタベタに人間臭いあの響きが、スペイン語である。

みなさんご存知じゃないかもしれないけど私がスペインに住み始めたきっかけは「あからさまなスジヒッカケによる親ッパネにつきインパチ第0話参照)というなんともインチキなもので、スペインに関する知識といえば、大学の授業でテキストとして「ドン・キホーテ」を厭々、しかもドイツ語版だったから「ドン・キショッテ」として読んだだけだった。だから、太陽の輝きもダメ人間への愛もつまりは作品の魅力ってやつをぜんぜん感じられなかった。スペインに熱き思いを馳せたことなど、一度もなかったのだ。

というわけで、みなさん誤解されているが、私、スペインとスペイン語についてはど素人。スペインに来て14ヵ月、まさにゼロから始めたスペイン語は、なんとか日常の買い物や旅行先での一過性の会話やサッカーの応援ができるかもしれないところまでにはなったが、ぜんぜん上手じゃない。まだまだ伝えたいことが伝えられないし、伝えられようとしていることもちゃんと受け取れなかったりする。ボキャブラリーも不足しているなら、文法知識も消化できていない。

「良いワインなんか買って、どうしたの?」と聞かれて答える言葉はこんなかんじ。 「ここへ来た理由? ここは私の家だから。え? あ、ワイン。というのは、明日の次の日は、誕生日でしょうから。お祝いのため。でも本当には正確には、誕生日ではないのです。私は間違えてしまった、また今度。なんと言うかな、キ……、キレン?  キメン? の日のことです。そうそう、こう言いましたかもしれない。ちょうど3年前の明日の次の日、結婚しました日がでした、そのそれの日のことです。そう、それそれ、結婚記念日、正解ですねと推測します。今、ありがとうと思いました、いつも思っていますか。あ、あなたじゃなくて私が思っています、また間違えました、スペイン語はとても難しいね。でもこの表現だけは完璧ですが。というのはよく使っていますから」


 私は語学習得を第一目的とする留学生じゃないし、家計も楽ってほどじゃない。それで、どうしてもかなりの出費を伴う語学学校通いには抵抗があったんだけど。そろそろスペイン語吹き替えで放送される映画のストーリーが把握できないのもジリジリしてきたし、近所のおばちゃんとも込み入った話をしたくなってきたし、なによりこの国とこの国の人をもっともっと知りたくなってきた。

かくして、みたび第26話第31話参照)、語学学校の生徒になりやした。今回は少なくとも3ヵ月、できればさらに半年は続けて通うつもり。ふと思いついたやや抽象的なおもしろい表現を、間を外さずに言えるようになる、それが第一段階の目標。日本語なら、「なんでやねん、お前は○○か」 「いやいや、俺は△△ちゃうっちゅうねん」といったところ


今回も、前回に続きレベル2のコースに入学。新学期が10月から始まったこともあり、11月中途入学のクラスはひとつだけ、しかもその存続すら危いほどの小人数。初日、生徒はなんとふたり。私と、モロッコ出身、おめめの綺麗なアミナちゃん。2日目からポーランド出身のカタリーナと、オーストラリア出身のスコットと、ブラジル出身のシスター(名前失念)が増えて5人、そんだけ。

先生はバジャドリー出身のアグスティン、服にも髪にも無頓着でぷっくりとした頬の大部分を毎朝剃っても剃りきれないヒゲが鈍くさく覆っている。大学ではオチ研所属、気になるあの娘と喋るのは授業のノートや模解を貸す時だけ、「好きになった人から、いつも友達以上の対象として考えられないと言われます。どうしたらいいですか」という雑誌巻末の読者投稿欄をちょっと真剣に読み、『六条麦茶』をペットボトルから直接飲む、そんなかんじの、とてもいい人。

多くのスペイン人がそうであるように、アグスティンもまた、本当に自分の出身地を深く愛し誇りを持っている。バジャドリーの話になると、とぼけた寝ぐせの頭を掻き掻き、私たちには難しすぎるスペインの歴史だとか美術史を交えながら、もどかしげに身をよじりつつバジャドリーの魅力を力説する。そうそう、バジャドリーといえば城選手第16話参照)が所属していたサッカーチームの本拠地。アグスティンは「彼は本当に素晴らしい選手だった、いなくなってとても残念だ」と、これまでこちらで聞いたこともないような賛辞を贈ってくれるのだ。


小人数だからということもあり、授業はとても素晴らしい。私もそろそろいいかげんに正確なスペイン語を習得したいので、しょっぱなに「センセ、たとえ意味が想像できても、ちゃんと正しい表現に訂正してね」とお願いしたし(その文章がさっそく訂正されたけど)、その後は毎日小さな作文を提出して添削してもらっている

スペインの大学へ入学準備中のアミナも、コロンビア出身の恋人候補に夢中のカタリーナも、スペイン人の彼女と婚約中のスコットも、来年からチリで教会の仕事に就くシスターも、みんな真剣に、でも楽しんで勉強している。


隣の席は、アミナちゃん。スペイン語を習ったのはこの学校が初めて、すなわち2週間くらいだというけど、とても流暢に話しちゃう。それもそのはず、彼女の出身地はモロッコの中でもスペインにゆかりの深いタンヘル(タンジール)。ジブラルタル海峡を挟んで、スペインのアルヘシラスから直行フェリーが頻繁に運航されている町だ。多くのスペイン語が、日常的に使われているらしい。しかも高校ではフランス語を勉強したとのこと。フランス語とスペイン語がこれまた、文法面でも、よく似てるんだな。

それでもアミナちゃんのノートを覗き込むと、アラビア語がびっしり。意味なんて、まるで想像できない。「へー、すごいねぇ、ぜんぜんわかんないや」と驚くと、大きな眼をパチパチさせながら私のノートを覗き込む。「カナの文字の方が、ぜんぜんわかんないよ」  そりゃそうか。「カナ、ひょっとしてこれ、ぜんぶ文字?」  眼がますます大きく開かれる。とても綺麗で優しい色。瞳の奥に澄んだ池があって、白鳥が静かに横切ったみたい。うっとりしてると、アグスティンがノートを取り上げた。

「カナ、これは何?」 見ると漢字で『』と書いている。「プエンテ(橋)っていう意味の文字だよ」  「ひとつひとつの文字が意味を持つのか?  じゃあ、これは?」 アグスティンが指差すのは『』。「これは、アルファベットみたいなもの。日本語には3種類の文字があって、ひとつはアルファベットみたいなもの、もうひとつも同じようにアルファベットみたいなものだけど外国から来た言葉を表わすためのもので、それぞれ50コずつ。そして、もともと中国から来た文字があって、これはひとつひとつが意味を持ってるの」  「それは何コあるの?」 「うーん、いくつだっけ。2万……、10万……」  「えーっ」 クラスのみんなが、それぞれ盛大に驚いてくれる。

「へーっ、とてもじゃないけど日本語は喋れそうにないよ」  アグスティンがノートを返しながらこれまたオーバーリアクションを添えてくれる。  「でもこうやって、日本や、いろんな国のことを知るのはおもしろいね」  私も、嬉しい。「これで日本のこと少し詳しくなったよ。ショージ・ジョーだろ、ノリック・アベ(バイクレース500CCの阿部典史選手)だろ、SONYにHYUNDAI」  いや、HYUNDAIは韓国なんだけど……。


指摘したら、きっとアグスティンは寝ぐせに手をやりながら誠実そうな照れ笑いをしてみせるだろう。それを見てアミナちゃんが、深緑色の眼に小さい光をいっぱい散らせて笑うだろう。前の席のカタリーナが「ほんと?」という問いかけを大きく見開いた眼になみなみと張って振り向くかもしれない。

楽しくてたまらない。クラスも、スペイン語の勉強も、スペイン語も、スペインも。

「スペイン語もスペインも、大好きです。というのは、人も食べ物もおいしいと感じるから。あなたもおいしいです。とてもおいしい。私は嬉しいです。私はスペインを上手に話すできませんので、いっしょうかんまい勉強しているいます。なぜならばというのはそういうことで、私は私が嬉しい感じている気持ちをもっとちゃんと数える、話す、したいです。私のことを陽気で人懐っこい、言いました、あなた。でもそれは私があなたによって楽しいからでしょう。あなたに伝わりますか? 私は伝わっていますか?」

ああ、もっと勉強せな。



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