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2005年12月28日

人生は麻雀だ

まるでパンチ佐藤が人生を喩えるときに必ずロサ・モタを持ち出すように(というあたりで私の日本の記憶は止まっているということです)、私はついつい人生を麻雀に喩えてしまう。
大学在学中のほとんどをメンバーとして毎日10時間×週6日+趣味で2徹なんて当たり前!に麻雀を打ってばかりいた(バイトや司法試験やサックス吹きもしてたが)、という、主に量的な問題が、その原因だと思っていた。

が、私が一方的に師と仰いでやまない(師は一方的に仰ぐものらしいです。例:『仰げば尊し』←@橋本治や内田樹。あっまさに!)内田さんが、さらに老師と呼ぶ釈徹宗先生によると、むしろ「人生は麻雀だ」のほうが真実に近いのだと教えてくれた。
その「解」は今日ブログ「内田樹の研究室」に書いてあり、それは当然、師や師の老師に比べると洟を垂らしてそれを舐めているような私が思い描いたこともないような遥か遠くの地平まで私たちを連れて行ってくれるものであるので、ここに付け加えることはなにもない。

……と書いた直後に付け加えるのだが(ほとほとバカだね)、今日の内田さんのブログのキーワードであるsynchronicityに行く前の前提、つまり、麻雀は「どうやら「前言語的なもの」をコミュニケーションの場に引き出す」ゲーム(@これも内田さん)である、ということについて。
人間は、というのはなんなんで「少なくとも私は」と言い換えるが、言語的なもの+前言語的なものの両方をいっぺんに使えるというのが、本当に身体が震えるくらいうれしいんだね。

モノを買うときだって(「交換」の場だ)、ありがとう(冷厳に定められた価値+α、「贈与」かな?)ってことばがあるとやっぱりうれしいし、っていうかそれより先についつい、モノを買っときながら私の方から「ありがとう」と言ってしまう。
それはもう、「自分は正当な値段でこれを買った=ルールにのっとって手に入れたのだから、頭を下げる必要なんてサラサラない」という現代グローバリゼーション的な「常識」に笑われるような田舎臭さで、言ってしまう。
(ちなみにスウェーデン人の仲良しカリンちゃんも、スウェーデンでも一般的に買い物の場でそういうやりとりが行われると言っていた。魚料理の口直しに生姜を使うらしいし、なんだか共通点が多いんだな。いまごろ小人が住んでいる自宅で、私の薦めた村上春樹を読んでいるんだろうか)

よくよく人間は(というのはなんなんで、「少なくとも私は」)、コミュニケーションが好きなのだなぁ。
このところ、毎日そのことばかり思っている。
まだことばをしゃべらない小さな子どもだって、「ハイどうぞ」(と、モノを渡すふり)→「ちょうだい」(と、ものを受け取るふり)→「ありがとう」(ペコリと頭を下げる)→「どういたしまして」、っていうのが本当に好きで、100万回でもやるもんね。

粘菌のように、ニューロンのように、うちたちは触手を(おずおずと)伸ばしあう。
なんか、悪くないイメージだと思ってます。

投稿者 kanasol : 2005年12月28日 18:40

コメント

この日の内田さんのブログ『甲南麻雀連盟打ち納め』
http://blog.tatsuru.com/archives/001457.php

投稿者 kanasol : 2006年01月06日 11:31